今の自分で何とかしようとするのではなく、別の人格に切り替える方法もある

 

前回の記事は望む答えを得るその瞬間まで、この身は道化に甘んじるともでした。

今回も小説『Fate/Zero』からの引用でスタートします。今回は主人公の衛宮切嗣です。衰えが顕著となり死を間近に控えた状態にあるアイリスフィールと会話をしている時の心象風景になります。

彼の目的意識を遂行するシステムは、別のドライブで滞りなく稼働する(Fate/Zero)

思いのほか容易に、声は出せた。ナタリアを撃ったときもそうだった。手先にも、言葉にも、決して支障はない。どんなに心が軋んでも、思いが砕け散っても、この両手が十全に与えられた使命を果たす。

勝てる——と、そのとき確信した。

いま衛宮切嗣は万全だ。その機能の信頼性には全幅の保証ができる。

人としての強さなど、もとより自分には求めるまでもなかったのだ。どんなに迷おうが、苦しもうが、そんな障害(バグ)はハードに何の影響ももたらさない。彼の目的意識を遂行するシステムは、別のドライブで滞りなく稼働する。

あらためて思い知る。——自分は、ヒトとして致命的に壊れているが故に、装置として万全なのだと。

虚淵玄『Fate/Zero 5 闇の胎動』

 

自分の意思に反してやりたくもないことをやらされ続けていると、その苦しさから逃れるため自分の中から湧き上がる本音にフタをして隠そうとする人がいます。そうやって本音にフタをすることで、自分のやっていることに対する疑問を封じ込め、自分自身を思考停止状態にしてしまい、やりたくないことでも他人から言われたことをそのままこなすことが出来る機械のような人となる場合があります。

 

という記事を以前書きました。

何をすべきかだけで動くようになったらそれはただの機械(Fate/Zero):(2019/1/30)

 

内容は自分の気持ちをごまかして機械として生きるのはいかがなものか?的な内容の記事でしたが、今回は角度を変えて機会として動くことを肯定的に捉えた内容になります。

 

「きれいは汚い、汚いはきれい」(シェイクスピア『マクベス』)のセリフに代表されるように、世の中にある陰陽の関係は常に相対的であり、それをどう見るかでそれが良いか悪いかということは簡単に変わっていきます。

 

これを「機械のように生きること」で見てみると、「思考停止状態にしてやりたくないことをやるために機械のように作業する」というと否定的に見えますが、「自分の中のネガティブな感情をシャットアウトして仕事にマイナスな影響が出ないよう機械的に作業していく」ということになるとこれは肯定的にとらえられることが出来るはずです。

 

ここで僕個人な意見として良い悪いの判断をすると、自分のゴールに対する意思が介在しているかどうかが人が機械として動くことの良し悪しの基準となります。すなわち、自分の目的達成のために積極的に機械化しているのであればそれは良いことであり、他者の指示に盲目的に従うために機械化するのであれば、その機械化はその人対し良い影響を及ぼさないのではないかと思うのです。

 

で、今回は良い機械化の話です。

実はこの自分を機械として機能させるやり方というのは、生きていく上で、またゴール達成に向けて進んで行く上でとても有効に働いてくれます。

 

私たちは生活している時に、常にやる気MAXで万全な精神状態でいるわけではありません。体調不良の時もあれば気が乗らない時、また心配ごとが頭から離れない時もあります。そんな時に強い気持ちがあれば大丈夫だと考えるのはあまりにも安易です。

 

人としての強さなど、もとより自分には求めるまでもなかったのだ。

 

気持ちの強さを押し通すのだって限度があります。気持ちの強さを過大評価して「やる気を出せば自分は何でも出来る」と思うのは勝手ですが、今までに本気を出したことがあるのであれば、気持ちの強さだけではどうにもならないこともあることぐらいわかって当然なのです。

 

どんなに迷おうが、苦しもうが、そんな障害(バグ)はハードに何の影響ももたらさない。彼の目的意識を遂行するシステムは、別のドライブで滞りなく稼働する。

 

そんな時は気持ちを強くするよりも有効な方法があります。それは、あえて自分の人格を切り替えてしまうことです。今回で言えば徹底的に自分を機械とみなして、機械として目の前にある機能を果たそうとすることです。

 

人格を切り替えるというと、難しそうに聞こえるかもしれませんが、これは多くの人が普段からやっていることです。自分ひとりでいる時、恋人といる時、先生と話す時、会社にいる時、営業先にいる時、旧友と会った時、などそれぞれ別の仮面(ペルソナ)をかぶって素の自分をあまり出さないようにしています。そしてそれを無意識に使い分けています。

その今まで無意識でやっていた人格=仮面(ペルソナ)の使い分けを、自分のゴール達成のために意識的に使うようにするのです。その人格のひとつとして自分の機械化をストックしておくのです。そして、自分のゴールや目標の達成のためにやるべきことがある時なのに自分の精神状態などがそぐわないことがあれば自分を機械化した人格に切り替えてそのやるべきことを遂行するのです。

 

衛宮切嗣は妻のアイリスフィールが衰え余命わずかな状態になっているのを目にし、普通であれば心の弱さが出てきてもおかしくない場面においてさえ、心や体の機能が揺らぐとこがありませんでした。そして、そのことをコンピュータに例え『どんなに迷おうが、苦しもうが、そんな障害(バグ)はハードに何の影響ももたらさない。彼の目的意識を遂行するシステムは、別のドライブで滞りなく稼働する』と自分の状態を把握します。機械としての自分が、別のドライブということです。

 

聖杯戦争を勝ち抜くためには情に流されず自分も味方も機械として徹している切嗣が、この場面において自分の機械としての機能が万全であることを把握し、『勝てる——と、そのとき確信した』のです。

 

切嗣は迷いも苦しみも克服したわけではないのです。ただ、迷いや苦しみは聖杯戦争に勝利するという目的には不要なので、聖杯戦争が終わるまでは別のドライブを稼働させるということです。人間としてのドライブは稼働させていないので、迷いや苦しみに影響されず、機械のように合理的に目的達成のためだけに行動出来るのです。

 

あらためて思い知る。——自分は、ヒトとして致命的に壊れているが故に、装置として万全なのだと。

 

切嗣の場合は、自分がヒトとして壊れているから装置として万全なのだというオチを自分で付けてますますが、娘のイリヤスフィールと接している時や『Fate/stay night』で養子の衛宮士郎と接すしている場面を見ると、決してヒトとして壊れているとは思えません。なので切嗣も人格を使い分けていたのではないかと思います。

 

まぁ使う使わないはともかく、ゴール達成に向かう中でこのようなマインドの使い方もあるんだということを知っておいて損はないと思います。

 

Fate/Zero(1) 第四次聖杯戦争秘話 (星海社文庫)

今回も最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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